渡部昇一著・江藤裕之編『学問こそが教養である』(育鵬社 2019/4/17) の内容は、昇一先生が講演会や研究会などで話されたものであり限られた人たちしか聴いていない。その後に学会誌『アスタリスク』に収録されても一般の目に触れることはめったになかったわけだが、市販書の形で一本にまとめられたことは真に悦ばしい。内容は日本人にとって実に大切なことに満ちている。
本書の第1章「対話する西洋と日本」はドイツ・ミュンスター大学名誉博士号を受けるときの記念講演である。述べておられるような「既視感」は聴衆であるドイツ人にとっても興味深いものであったと思うが、ここでは、特定の箇所に注目して、個人的な意見・感想を述べてみたい。本書のレビューというより、先生の発言を契機とした一種の『論語』論、教育論のようなものになる。
「・・・儒教の本質は日本人にとりまして宗教というよりは、むしろ倫理であり、また哲学でありました。」と昇一 先生は述べておられる。
私はかねがね『論語』の内容は日本人によく合うが、チャイニーズ、コリアンには合わないように感じてきたが、上の先生の言葉を見て日本人と『論語』とのつながりに思いを致し、同時に彼等と日本人とでは民族の性格、性質の大きな違いがあるという意識を新たにした。
徳富蘇峰もその著作『七十八日遊記』(明治39年刊)に収めた「論語逆読の法」と題した小文で、『論語』の一言一句を逆にとって読めばシナ人の古今にわたる情態を知ると書いているのを見て、ほうと思ったことがある。そこには例をいくつかあげてあり、「君子は義に喩(さと)り小人は利に喩る」の一句にて、なるほど如何に彼等が利に敏なるかを知る・・・と蘇峰は述べている。「子、罕(まれ)に利と命と仁とを言う」の一句でも彼等がつねに利を語るかを知り、また、「子、怪・力・乱・神を語らず」で、如何に彼等が怪物蛇神を有難がるかを知るというわけである。論語の一言一句を逆に取りさえすればほぼ彼等の真相を得るに近いということを書いているのである。
また、本書『学問こそが教養である』が出る少し前に、石平氏の『なぜ論語は「善」なのに儒教は「悪」なのか』(PHP研究所 2019/2/29) が出版されたが、「あとがき」に次の記述がある。「中国と朝鮮が儒教と朱子学によって支配されたのに対し、日本人は昔から自分たちの好みで『論語』を愛読し、『論語』の精神を心得ている。そして、まさにその重要な違いから、日本人と中国人・韓国人との「道徳格差」が生じてきたのであろう。」 ―――これも彼我の違いを述べていて興味深い。
秦の始皇帝の統一以来、絶えざる王朝、民族の入れ替わりを繰り返してきたチャイナにおける人心と、万世一系の日本の人心とは自ずから異なり、日本人が遥かなる『論語』に接するや初めから自然に気持よく性格的にピッタリ合い、それが今に至るも変わらないのである。なにしろ、わが伊藤仁斎は『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と言っているのだ。
現今、学校で教科書を使って「道徳」が授業で扱われるようになった。道徳が教えられること自体はよいことだと思うが、どうなんだろう・・・。私自身は現在何ら制約を受ける立場になく、のんきな身分だから言うのだが、やはり日本人には『論語』が合うと思う。教える方は安心、学ぶ方にも何の心配もない。
その日本でも『論語』を逆にとったようなことが世間にはいっぱいある。逆にとったような人物も少なからずいる。天下り問題で引責辞任した文科省次官などもその例であろう。携わってきた職務からは考えられない人生を歩んでいるように思う。現役時代は「道徳」を教科化するときの責任者であったが、辞任後は検定に合格した教科書を批判し、また、「面従腹背」などと言う卑怯な男である。さらには、歌舞伎町の「出会い系バー」に出入りしていたことが明るみに出ると「女性貧困についての視察調査」のためと言ったり、その他散々なことを口にする、およそ道徳とは無縁、正反対の人が日本の教育行政のトップとしていたことは驚くべきことだが、こういう恥知らずの元大物官僚が今後も現れないとは言えないのが現実の世の中である。しかしながら、日本がこれからも建設的に発展し、日本人の多くが健全に生きていくためには、長い間に培われた日本人としての心がけ、暮らしぶりを大切にしていきたい。
今、高校生の授業への関心が低く、勉強する目的意識や意欲が薄れているとの懸念で、教育改革の検討が中央教育審議会に諮問されているそうだが、学科に限らず心を磨く教育を共に重視することが、教科の学力を上げるためにも効果的であるのではなかろうか。自由な立場にある身から言わせてもらえば、やはり『論語』の利用だ。利用というと変かもしれないが、学校で『論語』を教えることである。当今では先生も一緒に学ぶつもりでやるのがよいかもしれないが、現実的にはまず制度的にできないだろうなあ―――。文科省が大々的に取り上げることはしないし、できないだろう。どこかで誰かが取り上げることを期待しよう。
日本人は何百年も『論語』を愛好してきて、今も日常を論語的に過ごしている。『論語』を読んだことがなくても意識しないまま論語的に暮らしている。日本人の性質によく合うのである。現今の世情から見ても『論語』の実用性・有用性は高い。昇一先生の言葉に触発されて『論語』有用論を述べた。大方の御批判・御教示を待つ。